大判例

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東京高等裁判所 平成5年(う)1303号 判決

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人斉藤俊一提出の控訴趣意書に記載されたとおりであるから、これを引用する。

所論は、原判決は、被告人がAに対し、腹部、顔面、頸部を手拳で殴打する暴行を加え、傷害を負わせた旨認定しているが、被告人は、このような暴行を加えた事実はなく、Aの一方的暴行に対し、もっぱら防御に終始していたものであり、仮に被告人の行為によって傷害の結果が発生したとしても、やむをえず行った防御行為であるから、原判決には判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認があるというものである(なお、所論は、被告人の行為は現在の危難を避けるためにした行為であって緊急避難に該当し、あるいは期待可能性がない旨を主張するが、その実質は正当防衛の主張であると解される。)。記録によれば、本件の経緯として次の事実が認められる。

1  被告人は、平成三年一二月六日午後一一時ころから原判示のスナック「甲」店内で飲酒中、翌七日午前零時三〇分ころ来店した知人のBおよびその甥のAと合流し、同店奥トイレ脇のカウンターに、奥から被告人、B、Aの順に並んで飲酒、雑談を始め、被告人が元プロボクサーで、ボクシングジムを経営しており、自分のことが載っている単行本を見せていたところ、同日午前零時五〇分ころ、Aが同書に記載されているCが自分の知っている暴力団幹部であるなどと話をしたことから口論となり、被告人が「若いのに生意気だ。」などといったところ、Aも「何を」と応酬し、互いに立ち上がった。

2  Aは、やにわに両手で被告人の胸ぐらを掴まえて、同店奥のトイレのドア付近に被告人を押しつけ、被告人の顔面に三度頭突きを加え、そのため被告人の眼鏡が飛ぶとともに、顔から出血した。そのころ同店の客でカウンター内にいたDが二人を引き離そうとしたが、Aはなおも被告人の頭髪を掴むなどして揉み合いとなった。間もなく、同店従業員Eも止めに入り、Dとともに両者を引き離し、被告人はEに連れられていったん店外に出たが、再度引き返し、Aに向かって「来い。」と叫んでいた。

3  右喧嘩により、被告人は加療期間約一カ月を要する顔面打撲、頸部挫傷、上口唇挫創、顔面切創及び上顎左右側切歯脱臼の疑い、Aは全治約一週間を要する頸部挫傷及び口唇挫創の各傷害を負っており、被告人は当日所轄警察署にAを傷害で告訴した。

この喧嘩においてAの加えた暴行については、右のとおり、被告人の胸ぐらを掴んでトイレのドア付近に押しつけたこと、三度頭突きを加えたこと(もっともA自身は一回である旨供述している。)およびその後も被告人の頭髪を掴むなどしていたことが主要なものであり、これらについては、被告人をはじめA自身の供述及びD、Eの供述によっていずれも認められるところである。

ところで、この間被告人の加えた暴行については、被告人は、自分は一切殴っておらず、Aの傷は後日自分でつけた傷であるかあるいは頭突きの際に生じた一種のムチ打ち症状であろうと述べ、また、自己の行為につき頭髪を掴まれていたのを離そうとして相手の顔や胸などあちこち押すか突くようにした旨供述している。これに対し、Aは、立ち上がって胸ぐらを掴んで押していった際、被告人から両手で腹部を七、八回殴られたこと、その後自分が一回頭突きを加えたのち被告人と殴り合いとなり、その際唇と喉のところを殴打された旨供述している。このうち、被告人から両手で腹部を七、八回殴られたとする点は、もしその事実があったとするならば、被告人の行為は所論のいうような防御的なものとは認められない公算が大きくなるから、特に重要であると思われる。

そこで、右Aの供述の信用性について検討する。当時現場にいて喧嘩の状況を目撃していたBは、検察官に対する供述調書では、双方が立ち上がったのち、被告人がAの胸ぐらを掴んでカウンターに押しつけ、その後逆にAが被告人の胸ぐらを掴んだところ、被告人がAの腹、胸などを五回位左右の拳骨で殴りつけ、Aが怒って二回位被告人の顔に頭突きをし、被告人の顔から血が流れ、そのあと取っ組み合いのような恰好となった旨供述している。しかし、同人は、原審公判廷では、両名が立ち上がった後、Aが被告人からカウンターに押しつけられ、被告人は、右手でAの胸ぐらを掴んで、左手で五回くらい胸、腹の周りを殴り、その後Aが起き上がったが、Aの頭突きは見ていない旨証言している。Bは、脳内出血のため右半身が不自由で、身体をねじ曲げることも困難であって、本件当時も喧嘩が始まってまもなくEの手を借りてテーブル席に移動しており、そもそも姿勢、及び位置関係からどこまでの状況を目撃できたか疑問があるうえ、被告人がAの腹部を殴る直前の体勢として被告人がAをカウンターに押しつけていたとする点は、A自身も述べていないことがらであり、また、Aが頭突きを加えたかどうかという重要な点についても捜査段階と原審公判廷とで供述が一貫せず、かつ、検面調書でのAの頭突きを見たとの供述を翻した理由として、もともと見ていたわけではないが、Aから話を聞いていたのでそのように供述したものと思うと述べるなど全般にAを庇った供述に終始しており、結局Bの供述によっては、被告人がAの腹部を殴った事実は認定できないというほかはない。

他方、E、D両名は、いずれも被告人とAが立ち上がり、Aが被告人の胸ぐらを掴んでトイレの方に押しつける状況を目撃しているが、Eは、その後Bをテーブル席に移していたため、その間の両名の暴行の状況は目撃しておらず、その後、くっついている二人をDが引き離そうとし、Aの手から醤油差しを取り上げたりしたが、間もなく二人が離れた旨供述している。さらに、Dはカウンターの外に出て、Aが頭突きを加える前に両名のもとにかけつけ、その後Aが自分の頭越しに頭突きを加え、被告人の顔から出血したこと、その後もAが被告人を掴んでいるのを離そうとしたが、Aが醤油差しを掴んだりしていたこと、また時点ははっきりしないがAが被告人の頭髪を掴んでいたことなどを供述しているが、前後を通じて被告人がAを殴るのは見ておらず、自分が止めに入ってからは殴れる状態ではなかったと思う旨供述している。両証人は、前記のように、必ずしも喧嘩の一部始終を見ていたとはいえないと思われるうえ、いずれも被告人の経営する「甲」の従業員または常連客であり、その供述を全面的に信用することはできず、これをもって被告人がAを殴らなかったということはできないが、喧嘩の全体的な流れについては、概ね信用できるものと認められるところ、その状況はAの述べるところとは相当異なっている。

そこで、A自身の供述の信馮性について検討する。Aは、前記のとおり、一応自己の行った暴行を認める供述をしているが、その経緯、態様等について述べるところには疑問が少なくない。まず喧嘩の発端となった被告人とのやりとりについて、暴力団幹部の名前を持ち出したのはAであると思われるが、Aによれば、同人がFの名前を持ち出したところ、被告人が「そこまで知っているのに挨拶がないじゃないか。」と怒りだし「表に出ろ。」と告げたというのは、いかにも被告人が暴力団と繋がりがあるかのように印象付けるものではあるが、話としてはなはだ不自然であり、また、喧嘩ののちいったん店外に出た被告人が立ち返って、「C組をなめたことを言ったな。」とすごんだというのも、流れとしては理解しがたいところである。次に、自分が被告人の胸ぐらを掴んだのは「はったり」であり、これに対し被告人が七、八発腹部を殴ってきたので、腹が立って頭突きをしたと供述するが、「何を」といって立ち上がったのち、被告人の胸ぐらを掴んでトイレのドア付近に押しつけたことは、被告人のみならずE、Dも供述しているところであり、これが単に「はったり」であったというのは信用しがたいところである。さらに、Aは頭突きの回数は一回であったと思う旨供述するが、前記Bの検察官に対する供述調書でも二回と述べられており、被告人の傷の状況からしても二回以上おそらくは被告人のいうとおり三回であったと認められるところであり、この点について記憶がないとは考えられず虚偽の疑いが強いと思われる。さらにそのあと被告人との間で殴り合いとなったというが、その段階ではすでにDが間に入ってきていると認められ、前記のとおりE、D両証人の証言を全面的には信用しがたいとしても、両証人の述べるところからすれば、せいぜい揉み合い程度の状況であったと考えられ、被告人自身もその後殴られたとは供述していないことも考慮すると、Aの供述するように互いに殴り合いとなってそのうちの二発が唇と喉のところに当たった状況にあったものとは考えにくいところである。さらに、Eが被告人を店外に連れだす際に、「あんたまた」と言ったというのも、他には裏付けが全くない。これらの点からするとAの供述にも十分な信用性を措きがたいというほかはない。

もっとも、被告人の供述にも疑問があり、被告人は、捜査の当初から暴行は一切加えていないとし、その理由として①被告人が過去にボクサーであり、殴れば相手が大怪我をするおそれがあること、②喧嘩の現場が自分の店であり、トラブルを起こしては信用に関わると考えたこと、特にAが暴力団関係者であり、後でいざこざが起きることを心配したことなどから、そもそも自分には攻撃の意思がなかったと述べ、なお、③当初胸ぐらを掴まれていた段階ではAは身長が一メートル八〇センチ位あり、自分より二〇センチも高く、胸ぐらを掴まれて、体のバランスがボデーブローを打てる状態ではなかった旨供述しているが、このうち、③の点はともかくとして、①②の点については、前記のとおりの喧嘩の発端時の状況及び喧嘩が終了していったん店外に出たのち再度引き返して、Aに「来い。」と発言していることからして、被告人自身相当激昂し、喧嘩を辞さない状態であったことが認められ、信用しがたいところである。また止めに入ったDが自分とAとの間に身をかがめて割り込んだとする点なども、Aの腹部を殴った事実がないことを強調するためのものと思われるが、体勢的に不自然で、その信用性には疑問があるといわざるをえない。

結局本件については、いずれの供述も全面的には信用しがたい点があるというほかはないが、前記のとおり、全体的な流れとしては、概ねE、D両証人の供述するとおりの経緯であったと思われるところ、これに被告人の「頭髪を掴まれている際にAの顔面、胸などを突くように押した」との供述及びAの「頭突きのあと互いに殴り合いとなり、唇と喉を殴られた」との供述(同時に、同人が他の時点においてこれらの部位に攻撃を受けたと供述していないこと)、ならびに被告人及びAの受傷状況等からすると、Aの傷は、Dが止めに入り揉み合いとなっている際に、被告人がAの顔や胸などあちこちを突くようにした行為によって生じたものと認定するのが、最も合理的であると思われる。そして、Aの頭突きの前に被告人がAの腹部を七、八回殴打したという点については、Aの供述以外にこれを認めるに足る証拠はなく、しかもAの供述にこの点を含めて種々の疑問があり、また、原審公判廷におけるこの点に関する弁護人の反対尋問に対するAの供述もいささか歯切れの悪いものであることなどを考慮すると、同人の供述のみによって被告人がAの腹部を殴打したと認定するには合理的な疑いが残るものというべきである。

以上の認定に従うと、本件喧嘩の経緯としては、両名が激昂して立ち上がったのち、被告人は体力の勝るAから胸ぐらを掴まれ、トイレのドア付近に押しつけられ、顔面に三回頭突きされ、眼鏡が飛ぶと同時に相当出血したが、なおも被告人の頭髪を掴むなどして攻撃を続けようとする同人と揉み合いとなり、その際同人の顔、喉等を突くように押したことにより原判示の傷害を負わせたという限度の事実を認めることができる。右認定によれば、被告人がAの顔、喉等を突くようにして押した行為は、その前段階において被告人がAに対し特段の攻撃を加えていない以上、自己の身体を防衛するためのやむをえない防衛行為であるというべきである。したがって、被告人の行為は正当防衛に当たるにもかかわらず、被告人に対し傷害罪を認定した原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認があるといわなければならない。論旨は理由がある。

よって、刑訴法三九七条一項、三八二条により、原判決を破棄し、同法四〇〇条但書にしたがい直ちに当裁判所において自判することとし、さらに次のとおり判決する。

本件公訴事実は、「被告人は、平成三年一二月七日午前零時五〇分ころ、川崎市幸区幸町〈番地略〉スナック『甲』店内において、A(当二九年)に対し、その腹部、顔面、頸部等を手拳で殴打する暴行を加え、よって、同人に加療約七日間を要する口唇挫創等の傷害を負わせたものである。」というにあるが、前述したとおり、本件被告人の行為は正当防衛であって罪とならないから、刑訴法三三六条前段により被告人に対し無罪の言渡しをなすべきものである。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官小林充 裁判官竹﨑博允 裁判官小川正明)

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